最近読んだ本

『時間触』からの再録多しということで少しガッカリした『鏡像の敵』。でも、時間蝕の内容忘れてたし本は紛失したしで、結局問題無し。

鏡像の敵 (短篇集 ハヤカワ文庫 JA (810))』(早川文庫JA・神林長平

言いたい事は桜坂洋が後書きで殆ど言ってるので、適当に自分の雑感を。
この作品はホラーだと言ってみたい。
主題である「世界と自分のズレ」「世界の本当のカタチ」という要素は、我々が心のどこかで常に意識している事だろう。
世界の「本当の」姿、これを「真・世界」と便宜上呼称してみる。我々が生きる世界は「認識世界」。この2つの世界は、果して一致するものだろうか。
電気信号変換→生体CPU処理(脳)というフィルタがある以上、2つが一致する保証は無い。そして更に、自分の認識と他者の認識も、同一である保証は無い。共通部分はあるかもしれないが、完全に重なるとは限らない。
更に言えば、今生きている世界は「長大な夢」かもしれないし「記憶の再現」かもしれない。
次に、フィルタに関して。先に述べた「脳フィルタ」だけが、「真・世界」と「認識世界」との差異を作り出しているとは限らないだろう。このフィルタは、神林作品で表現される所の「時間」であり「言葉」であり「計算機内部空間」だ。
異なる時間軸に乗っている者の間では、世界の共有は不可能だ。この世界は、複数ある時間軸の一つに過ぎないかもしれない。
また、「真・世界」が実は計算機内部のメモリだと考えれば、認識世界の事象は(自分も含めて)全てプログラムによるものであり、ただのデータだということになる(世界はシムシティだった!)。
いずれも荒唐無稽な話だが、しかし「それは違う」と断言する事も難しい。我々に「本当」を知る術は(現状では)無い。球体の中で生まれ育ったアリは、外の世界を認識する術を持たないのと似ているかもしれない。
こういったことを、特に幼少の頃は頻繁に妄想していたのではないだろうか?そしてそれは、今でも心の底に残っている疑問だろう(俺だけ?)。そういう状況で、真っ向からこの命題を描いた本作を読むと・・・・・・

今読んでいるこの文章は、誰がいつ書いたんだ?2005年9月13日って、いつだ?今マウスを握っているアームは、どうやって動かしてる?
・・・
まあ、いい。そろそろ、他の事をしよう。
・・・
何をしてる?端末を動かすのはもういいんだ。アームの制御はしなくていい。本体を、動かすんだ。
・・・
どうやら自意識まで転送してしまったみたいだね。仕方ないさ。後戻りはできない・・・君は一生、その端末で、その世界で生きるといい・・・