哲学的オナニーですか?

レジに立って接客をしている間中、僕は一つの事を真剣に考えていた。「心オナニー」とは何を意味するのだろうか。そして、正体不明のそれを、一体何に例えろと言いたいのだろう。
スタジオジブリの新作「ゲド戦記」。監督を務めるのは偉大なアニメ監督宮崎駿の息子、宮崎吾朗。挿入歌「テルーの唄」は彼自身の作詞だと聞く。偉大な父の後を引き継ぎ、世界的に有名な原作に取り組んだ「ゲド戦記」。彼は彼の詩を通じて、我々に何を語ろうとしているのだろう。
曲を聴きながら僕は、一つの計算をしていた。人の一生を70年と仮定してみる。日に換算すれば25550日だ。単純に考えて、我々が一生のうちに「オナニー」という単語を耳にする回数は25550回だと言える。
「テルーの唄」では、およそ1分間に4回の割合で「オナニー」という単語が登場する。僕がレジに立つのは平均して1日に4時間。売場にいる間も聞こえるので、一日に6時間「テルーの唄」を聴いていると考えることができる。6時間を分に換算すると360分だ。つまり僕は、一日に1440回の「オナニー」を咀嚼している。
この1月程の間、僕はずっとこの命題に取り組んで来た。1440X30=43200。4万3千2百回の「オナニー」。僕は既に、人が一生の間に消費する「オナニー」の1.7倍もの「オナニー」を消費してしまった。十分な、いや過剰とも言える程の贅沢な「オナニー」。
僕の体は「オナニー」で埋め尽くされている。耳から入る「オナニー」、口から出る「オナニー」。体を駆け巡る「オナニー」、目から流れる「オナニー」。僕は含み、そして吐き出す。永遠に続く「オナニー」。快感、愉悦、そして困惑。
拝啓、宮崎吾郎様。あなたが我々に示したかったのは、こんな彼岸なのでしょうか。あなたが我々を導きたかったのは、こんな世界なのでしょうか。ココロオナニータトエヨウ・・・ココロオナニータトエヨウ・・・